この城は泗沘都城を防御する核心施設である。扶餘で都邑を移した西暦538年以前にもう築造されたことに推定される。扶蘇山の頂上と尾根に沿って土で積み、城の総長さは2,459メートルである。現在残っている城郭は大きく3ヵ区域に仕分けされている。この中に渓谷全体を取り囲んだ包谷式山城だけ百済時代の物で発掘調査の結果確認された。
城の施設物では東,西,南,北四ヵ所の門址及び竿、そして軍倉址等がある。白馬江に沿った北西の方の城壁下の絶壁には百済滅亡の時、宮女たちが亡国の恨みをおさめたまま自ら身投げをしたという落花岩がある。
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